後殿について
昭和20年(1945年)に鹿港天后宮の後殿は連合軍による爆破に遭いました。後殿が破壊した為、『玉皇大帝』・『三官大帝』の神像は、正殿内に移動し祭りました。
   
民国48年(1959年)、マーズゥー(媽祖)の1000年の誕生日を迎え、それは旧暦3月5日に鹿港で大きなイベントを催しました。昭和2年(1927年)の天后宮修築工事の際、後殿の修復はまだしておらず、民国48年(1959年)に地方地主の人々によって修築工事が始まりました。
後殿は民国48年(1959年)5月13日から修築工事が始まりました。作業日程は鹿港大工職人の水龍師(施水龍)と海師(施義海)が担当しました。
コンクリート職人は炳師(郭炳)がしました。この作業時間は約1年余りにも及び、民国50年(1961年)旧暦1月6日に、初めて建物の最大の元となる梁を建てる事が出来ました。同年11月6日に前半の工事が終了し、12月6日に玉皇大帝が無事祭られた事を祝う儀式が行われました。
   
後殿2階は本来三開間の建築だったのですが、民国52年(1963年)に天后宮委員の呉孟津が坤玉師(施坤玉)に依頼して、後半の作業を始めました。後殿は五開間に増やし、2階のベランダは八角型の形にしました。こうする事によって参拝客がより大きい空間で参拝できる為です。当時後殿の神棚は一部分を煥美師(李煥美)と傳師(施傳)などの職人が施しました。後殿の石彫りは、龍の柱は本来の物を残し、それ以外は?馨の孫張清玉が他の職人を引き連れ作品を作りました。後殿の部分的な彫刻と彩色画は民国60年(1971年)8月に完成しました。
後殿の前方には『天龍池』があり、民国54年(1966年)に建てられたものです。この池の構造はそう細かくはありませんが、池の周りには鹿港当時の文学者郭新林・朱啓南・施譲甫・王重五、そして陳源の字と絵が残されており、大変貴重です。
民国53年(1964年)、天后宮が台南の修復職人葉と葉進益に依頼し、正殿・三川殿の屋根が修復されました。ただ惜しい事に、この部分の作品は後に屋上の修築工事の際、壊されてしまいました。民国58年(1969年)陳穎派が後殿の彩色画をし、民国59年(1970年)に天后宮の三川殿前の出入り口を続けて作業し、新しく彩色画を行い、金箔を塗りました。民国61年(1972年)八卦門の両側の門にある彩色画以外に、鹿港名書法家王漢英に字を書いてもらいました。八卦門の板の上には彩色画と書法が出来ましたが、風に吹かれたり、陽に当たったりした事が原因で、今ではひどくはげ落ちていて、完全な修復が必要です。