| 正殿は重簷歇山式の建築方法を採っています。広さは三間分の構造で、昭和2年(1927年)天后宮修築工事の際に、正殿から始めました。当時正殿の大工職人は海同師(呉海同)で、その構造は彰化南瑤宮のと似ていました。しかしその後正殿の建築日程により樹發師(王樹發)が組み立て完成しました。花彫刻は泉州・潮州の職人と鹿港の彫刻職人が共同で作りました。 |
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| 昭和8年(1933年)、鹿港は市内の改正を実行し、日本人が不見天街を取り除いてしまいました。鹿港城隍廟の前殿も取り除かなければならず、当時城隍廟の管理人施性瑟が木彫り材料を天后宮へ移動し、2つの廊下に使用しました。 |
| 今の所この2つの廊下に施されている木彫り作品は三川殿の風格と明らかに違います。2つの廊下は天后宮の鐘鼓楼で、神を迎える時にこの鐘をならし歓迎の意味をもたらしました。龍邊廊道に『鹿渓聖母宮重修碑記』が有り、碑文には嘉慶20年(1815年)の修築の経緯が記されて、天后宮の重要文献の史料です。 |
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正殿真ん中の石彫刻には牡丹の装飾が施されています、両側の階段や手すりには蓮の花が彫られています。これらは皆、青斗石を使いました。正殿の中の天井高さがある空間に置いてある香で黒くなった木彫りと神像は、より厳粛に見えます。正殿前の出入り口には丸みを帯びた日覆いに似た建物があり、拝殿のスペースとしています。両側には2つの拱門で繋がれた廊下があり、その廊下にはには有境主公が祭られていて、拝むと子宝に恵まれると言われています。 |
| 正殿の石彫りは蒋馨石彫り職人の水文師(蒋文水)の作品です。花鳥と三国演義の物語を元に、立体彫刻しました。彫刻は『空城計』・『苦肉計』・『張松献蜀圖』・『馬超戦許?』などの作品があります。 |
| その他にその両端には『博古花卉』の石彫りがあり、巧みで完璧に出来ていて、職人の技術が表れています。正殿内にある梁上の木彫りは、多くが潮州と泉州の職人によって作られたものです。4つの金の柱上の梁は三通五爪で、正殿内の屋根をより高くそびえる為に使われています。梁の下は牌楼疊斗の方式を使い高さを増やしています。その他にニュートンの力学の用途があります。早渓楽成宮・彰化南瑤宮、彰化元清観などの廟でも、この様を方法を使っています。 |
| 正殿の神棚木は樹發師が引継いだ後、泉州木彫り職人の連吉師(黄連吉)が施しました。当時温州・潮州、及び鹿港職人も共同で参加しました。神棚の造型は廟に似ていて、立派で堂々としています。神棚の上には『?洲聖母』の額があり、前方の龍の柱の彫刻には八仙の人物が装飾されていて、その為神棚はより厳粛的に見えます。 |
| 神棚の上には清の雍正皇帝から与えられた『神昭海表』・乾隆皇帝から与えられた『佑済昭霊』、及び光緒皇帝から与えられた『與天同功』の額があります。この3つの額に共通する特色は皇帝の押した判が額の、ちょうど中心にある事です。『佑済昭霊』の額は、元々鹿港新祖廟(マーズゥー【媽祖】廟)が所有していましたが、光復初期の時代、この額を管理する者がいなく、廟内に放置されていました。その後当時鹿港鎮長の陳培煦が、この額を修復に出した後、旧祖廟の正殿に移動して、今日迄至ります。 |
| 民国46年に、マーズゥー(媽祖)の1000年の誕生日を祝いました。正殿の神棚は以前に高雄に住む鹿港出身の人が資金を援助し、部分的に修築しました。今回の修築は正殿の梁と神の部屋の彩色木彫りに金箔を塗りなおす事を主にしました。しかしながら、参拝の人が多く、今では正殿の木彫りや彩色画は煙で黒くなっています。 |
| 昭和11年(1936年)天后宮の修築工事が終わった後、何らかの原因で謝土の儀式をしませんでした。今の所正殿の4つの面の壁の上方は、工事の時の穴が残っており、これは建築が未完成と言う意味があります。正殿のブロックとブッロクの間にある隙間は外側に突き出たような円弧型になっていて、台北孔廟の大成殿でも見ることが出来ます。この様な方法は泉州渓底職人の作り方です。 |