三川殿について

鹿港街鎮の発展中、天后宮と龍山寺は街鎮の南と北に分かれてありました。その為天后宮の主な神マーズゥー(媽祖)は航海の守り神と呼ばれ、廟を建設する際にも港の近くに建て、行き来する船舶に、ご加護があるように願いました。天后宮からは鹿港の天街(中山路)の北側を見ることができず、廟の大門は「坐辰向戌兼乙辛分屬土、雷澤歸妹卦二爻」とあるように、廟は東南東から西北西の方角に建ってました、廟門前は丁度台湾海峡の向かいにあり、遠くにある?州(びしゅう)の廟を見ることが出来ました。廟は民間芸術による殿堂であり、廟は地元の財力・物資・一番良い職人が結合して完成しました。
   
廟の中の装飾を見れば先代から伝承した期待と努力が伝わってくるように見えます。『入廟看廟門』とあるように、廟の門は彫刻の重点でした。同じく廟外のシンボル門・天后宮の三川殿の石の窓のすかし彫り・龍と虎の石彫り・丁寧な彩色画、そして木の彫刻は全てじっくり職人技術を見る価値のある物ばかりです。
   
昭和8年(1933年) 天后宮の三川殿修築工事の時、泉州渓底の大工職人益順師(王益順)の甥樹發師(王樹發)が設計して建築しました。三川殿の屋根は重簷歇山式の造型で、台湾中の廟でこの様な造型は大変少なく、天后宮はとても特別は方法を使いました。鹿港天后宮の建築規模はとても大きく、三進二院(前殿【三川殿】・正殿・後殿)の構造です。
三川殿は五開間と言う建築構造で出来ていて、両端には八卦扉、正門は内側に向かって延びている様な感じに出来ていて、凹寿と言う構造で形成されていて、三川殿をより美しく見せる事ができました。三川殿前の出入り口・軒下の牌楼斗、横・縦の斗以外に、斜?を増やしました。それによって形は網状の格子のように見えたので、『網目斗』と名付けました。
身は如意型でもあるので『如意斗』とも呼びました。渓底匠派による廟の建築は全てこの方法です。例えば??龍山寺・彰化南瑤宮・北門南鯤?先天府・新竹城隍廟などがあります。天后宮の三川殿でも虎?を観る事が出来、前瞻のや回首のや交替疊置があったりして、廟に対する建築職人の特徴よく現れています。
三川殿の木彫りは鹿港初めての木彫り職人李煥美が作りました、石彫りは?馨家の文華・文水の作品です、色彩画は民国43年(1954年)から47年(1958年)迄は郭新林・柯煥章による作品です。木彫り・石彫り・色彩画・その他の作品どれも極めて芸術価値のある作品ばかりです。