鹿港天后宮は雍正三年(1725年)施世榜が土地を捧げた事により移動し、建て直しました。そして、嘉慶二十年(1815年)・同治十三年(1874年)・昭和11年(1963年)に修築し続け今日の建築規模になります。今の所天后宮では日治時代に撮った2枚の写真を保存しています。それは同治13年の修築の時、鹿港天后宮の姿の写真です。当時天后宮の建築規模は三進二院の構造になっていました。三川殿・正殿・後殿の3つです。三川殿は三開間という構造を使っており、両側には八字牆と言う壁を使っていて、それは大正4年に『圓仔炎師』と呼ばれてる鹿港風水師、蔡添炎が作ったものです。
   
大正11年(1922年)鹿港地方地主の施性瑟は天后宮の人たちを連れて?洲(びしゅう)廟に行きお香を捧げ参拝しました。基隆港を出発し、当時施性瑟は撮影師を雇って一緒に廟へ行きました。
それは天后宮に大事な写真を残す為です。参拝が終り帰った後、地方の人々はすぐに鹿港天后宮の修築工事をする様呼びかけました。当時鹿港天后宮の管理人泉合利・王君年は、鹿港街内の30名の保正(現在の役員に値する)を呼び集め、天后宮の修築工事に関する会議を開きました。その会議には鹿港の地元地主、そして天后宮修築工事総理でもある辜顯栄を招き、労務者を集め材料の準備をし、廟の修築工事をする事を伝えました。そして修築工事の発起人王君年は、残念な事に同年10月29日に亡くなりました、その結果廟の修築工事は中断してしまったのです。
   
昭和元年(1926年)11月10日、当時天后宮の管理人郭振英など21名が、連名で台中州に『鹿港天后宮改築寄付金許可』を申請しました、昭和2年(1927年)6月7日、当時台中州知事の三浦碌朗により『中警保第九二五八号附改築経費許可証』が分布されました。申請時改築予算3万元以外に改築の図面、正殿の平面図・正面図・階段図面・側面図も一緒に記してありました。こうして天后宮改築の許可が下りたのです。
鹿港天后宮改築許可後、地方地主は辜顯栄・陳懐澄・陳培堯・郭振英・黄禮永・蔡敦波・王舜年・黄則騫など96名で『鹿港天后宮改築総代』を創立しました。今回の改築経費は辜顯栄が3万元・泉合利が3千元及び各寄付金により修築します。天后宮の正殿から修築を始め、正殿にある神像は一時三川殿に移動しました。
それは、丁度昭和2年(1927年)再び観音神像を作った時でもあり、護身龍も供えました。それから鹿港に『龍山寺観音媽企護龍、媽祖企拝亭(台湾語)」と言う諺が出来ました。
鹿港天后宮は昭和2年(1927年)正式に修築工事を始めました。当時正殿から始め、天后宮は修築工事準備の時に、鹿港の人は当地(鹿港)の職人に修築工事の主宰をしてもらった方がいいと考えました。そこで?尺と言う方式をとり、鹿港の吃菜臨(施臨)・神通仔(黄神通)・水龍師(施水龍)・磚仔頭(梁金磚)4名の?尺方法を比べました。天后宮修築総理辜顯栄は益順師(王益順)に評定をお願いしました。鹿港籍の人は未だ大型な廟の建物工事経験が無く、尚且つ益順師は彼ら設計の寸法が複雑過ぎ、廟のとは合わず、修築工事の責任者にするのは相応しくないと考え、評定の結果鹿港職人の設計は採用されませんでした。
   
辜顯栄と民衆は当時彰化南瑤宮の建設を務めてる大工海同師(呉海同)に設計をお願いすることにし、鹿港天后宮の工事をするときは木成師(呉木成)に実際の総指揮をとってもらうことにしました。鹿港天后宮正殿はようやく工事を始める事が出来たのです、行政の事務は黄清俊に任せることにしました。海同師及び木成師が正殿の作業を始める時正殿を取り除く事はしませんでした、先に資材を用意したのです。同時石の彫刻職人は廟の右の空き地で作業を、木材彫刻職人は後殿の右側で作業をしていました。木成師が正殿の資材集めをしている時、昭和5年(1930年)にまたもや世界経済暴落に遭ってしまったのです。
天后宮の工事は経費窮迫の為作業が中断してしまい、海同師はこの為天后宮修築工事から手を引いてしまいました。天后宮の修築工事中断2〜3年たった頃正殿の修築経費を大和行(辜顯栄親族)が引き受け、工事日程の計画は鹿港の蔡天恩に、そして益順師の甥樹發師(王樹發)に鹿港工事の進行主導をお願いしたのです。
正殿完成した後、昭和8年(1933年)になってやっと三川殿の修築工事を始める事が出来ました。同年、天后宮の管理人郭振英が亡くなり、黄則秋がこの管理人の仕事を受け継ぎました。そして慶昌の陳培堯が工事日程進行の責任者となりました。三川殿の大木の工事は樹發師が行う事になり、当時費用は約1000元より少し多い金額でした。木彫り費用も約1000元より少し多い金額でした。(当時職人1日の給料は約0.6元から1.2元でした)そして正殿の神棚の木彫りは樹發師が引継ぎ、泉州の木彫り師黄連吉に任せることになりました。昭和11年(1936年)王樹發の指揮の下、天后宮の修築工事が終わったのです。
修築工事が終わった天后宮は、本来の正殿・三川殿と取り除き新しく建て直しました。ただ後殿の部分はまだ修築しておらず、玉皇大帝を祭ったままでした。今回の修築で廟の地盤の高さが足りなかった為、市場の六百零七号の土地(現在の香客大樓)を地盤の高さを補う為に使いました。それから池を埋め立て、日冶時代に漁業組合の事務所及び日本語塾になりました、後にここは食塩製造所になり、民国60年(1971年)代以降駐車場になり、民国82年(1993年)に香客大樓が建てられたのです。